日本大学第二高等学校
吹奏楽部 OB•OG会
昭和15年
(平成6年 日大二高吹奏楽部OB・OG会 発行「想い出集」より)
昭和十五年度卒 S.H. "初期のブラスバンド一ッ時"
日大二中のブラスバンドも創設以来一年半を過ぎ、外部の演奏会や街頭行進に出場する数を重ねていた頃、昭和十五年の秋口である。戦(日支事変)も厳しくなり、兵士の不足してきた軍隊も、先生方を招集し始めた。戦地に向かう先生を、バンドを先頭に勇ましく荻窪駅まで送ることが決定された。それは地元住民に二十数名のブラスバンドの腕前を披露するチャンスが来たことでもあった。
行進する道は、バス通りをさけた通学路である。昔も今も同じ交番の前を西側塀沿いに駅方向に、銭湯を曲がり次ぎの四つ角の酒屋から、高砂館という小便臭い映画館の看板を横目に睨み青梅街道から駅へ、そのころの青梅街道は駅の東大踏切を中央線の南から北にわたって駅前を通り四面道へと通じていた。
「祝 出征○○先生」の登りと、数人の先生たちを先頭に演奏行進は進む、付近の人々はバンドの勇壮なマーチの音に引きつけられて道に並び共に先生を送る。バンザイの声もかかり、「元気で帰ってきて」と出征する先生との会話も飛ぶ。妻子、縁者、気掛かりな生徒を残し、生死すら解らぬ戦地に赴く先生は楽しかるべきはずも無き心に鎧を具し勇ましく征かれた(当時出征兵士を送るには隣組、町会、在郷軍人会、所属企業の人々が軍歌を唄い歓呼の声で万歳万歳と送る習慣であった)。
初めての壮行の途中、酒屋の付近で、吹奏のあいまにドンドーンとリズムを外れた大太鼓の音がし、隊列の中から子どもが一目散に逃げ去った。小学二、三年の悪戯坊主である。驚いたのは不安定に保持した大太鼓を、不意に叩かれた中川君であろう。その時はそれで終わったが、後日の壮行の都度悪童の行為はエスカレートを重ねた。道に並ぶ大人の背後からスルスルと走り出てドドーンと握り固めた小さな拳で太鼓を叩くと満足気にニッコリと顔を綻ばせ素早く雑踏の中に一度は消えるが、見物人の背後を見え隠れ付いて来て隙を狙ってまた隊列に飛び込みドドーン!不思議に打ち損なうことは無かった。余程敏捷な子どもだったのだろう、相手が幼い子どもでは先生も手を焼く程のこともなく知らん顔。その悪童の話を昭和三十五年頃耳にした。(中略)
最後は駅頭で校歌の演奏、先生の挨拶、全員で万歳三唱、皆の見送る中を、先生は改札口を入りホームへ向かった。
昭和十六年度卒 N.T. "旧制二中の「旧友」"
昭和十五年秋頃だったと思う、旧日大二中ブラスバンドは創立以来の着実な練習が報われて、内幸町のNHK大スタジオで初めて公開放送することになった。小松平五郎先生はじめご指導頂いた諸先生方のお陰であることはいうまでもない。昭和十三年、部が創設されたとき、私は最下級の二年生だったが、バンドの主力は三年生が占めていた。われわれは楽器の基礎的手ほどきを教わるため、水道橋の昭和第一商業学校校舎で開かれていた夜間講習会に出席し、陸軍戸山学校音楽隊の下士官の指導を受けた。他の兵科と違って、軍楽隊では下士官といえども演奏技術は一流である。楽長さんでも軍隊では大尉止まりだった。
さてNHK大ホールでは夕方五時半頃からの放送開始を前にして指揮者小松先生以下一同緊張のうちに待機していると、ホールの片隅では独協学園中学のコーラス部が、たぶんドイツ帰りらしい音楽の先生のピアノ伴奏でシューベルトの「菩提樹」をドイツ語で合唱し始めた。あのころは音楽といえばクラシック全盛であり、よく聴かれていた。豪快なブラスの響きに比べると独協の少年コーラスは、実にデリケートに哀愁の気さえ漂わせて終わった。
さあいよいよわれわれ二中の番だ。曲はご存じタイケの「旧友」。われわれは勿論のこと、小松先生もいつもより何となく緊張気味に見える。演奏は、僅か数分で終わった。しかし練習の成果は大ホールの優れた音響効果と相まって充分に発揮された。部員たちは満足感にあふれて夕暮れの内幸町を家路についた。帰り際に市野先生と事務の森田さんから交通費としてと思うが、各自五十銭(だったと思う)を頂戴した。
私は昭和十七年二中を卒業したが、私たちが演奏したのは大部分が軍楽的な曲であり、軍国主義の影響で万事規律正しく行動するよう訓練されていた。ブラスバンドが校外に出かけるときはズックの鞄を肩にかけ、カーキ色のバンドを黒の上着にしめ、カーキ色のズボンにゲートルを巻き、靴は黒の編み上げという出で立ちだったからそのりりしさも想像できるだろう。そんなわけで軍国少年ブラスバンドの理想は帝国陸海軍の軍楽隊であり、伝統あるドイツやフランスの重厚で歯切れの良い吹奏楽団であった。
バンドの指揮棒は十回卒の川島さん、十一回卒の牛山さん、宮本さん、十二回卒の上野さん等が振って次々に卒業していかれた。敗戦直後上野さんに葉書を出したら、弟さん(二中卒業生)から「兄は予備学生で入隊し比島沖空戦で散華」した旨返事がありショックだった。
時代は変わっても、少年時代の学校活動の思い出は忘れえぬ数々の宝石で飾られている。卒業後四十年近くたって母校の大吹奏楽団を訪れ、佐竹先生指揮による演奏を聴かせていただき、昔日と段違いな技術的レベルにただ唖然とするばかりだった。折りあらばぜひもう一度拝聴したいものだ。