日本大学第二高等学校
吹奏楽部 OB•OG会
第二代校長 輿水季吉 先生
ー創刊号によせてー
『ブラスバンドの今昔』高等学校長 輿水季吉
(昭和34年10月31日付「桜朋」創刊号より原文のまま)
本学園にブラスバンド設置の議が台頭したのは、昭和十三年初春のことであつた。前年新緑の頃から、東亜の風雲がにわかに改まり、やがて日ごとに険悪さを増し終始するところも図り知れぬという気配が、全国にみなぎつてきた。それがため、質実剛健・堅忍不抜・勇往邁進・尽忠報国などを指導の目標として、青年学徒の志気を鼓舞する必要を痛切に強調された。この目的達成からブラスバンドの編成は、緊急不可欠のものとなつてきた。然しなから多額の資金を要すること、適当な指導者を物色することの困難、さらに部員養成の方法など、幾多の難関が眼前に横わつていたので、賛成者は多数ありながらも、その話は容易に進行することができなかつた。
ところが最も悩みの種としていた資金の調達が、当時の杉並区議会議員 今田誠貴氏(元一君の尊父)と、巽工業会社社長 山口四郎氏の、絶大な厚意によつて案外早く解決された。速刻楽器の購入について日本管楽器会社と交渉し、ついで注文の手続をした。それから数カ月の間に次々と珍らしい楽器が納入され、その年の秋には一通りのものが整つた。次は指導者の問題であるが、小松平五郎氏が当時の音楽主任で、而も斯界の権威者としてすでに名声を博していたので、むりやり氏にこれを一任した。然し小松氏は二三他校の講師をも兼任していたので、総監督には英語科の市野忠氏が衆望を担つて推薦された。やがて松山慎一・大槻桃丸・荒川正一ら諸氏の力強い応援のもとに部員の募集に着手し、年末二十四日には講堂に於て、ささやかながらも誕生祝賀の会を催うして発足した。
以来市野・小松両氏の熱誠な指導と、部員の真剣な練習と相待つて、その進歩は実に目ざましいものがあつた。歓喜と希望にもえた部員は、放課後は勿論のこと、日曜も祭日も夏休みも冬休みも、殆んど時間を超越して練習に没頭した。そのお蔭で短日月の間に、各方面からその存在を認められ、ある時は日比谷音楽室に招かれて演奏し、ある時はNHKの依頼を受けてラジオ放送の一端を担い、ある時は都主催の行事に嘱望され異彩を放つたこともあった。その後益々好評を博し、数年後には名実ともに都下に覇を唱えるまでに至つたことは、全部員の努力の賜物であつた。
空襲の直前小松氏は秋田に疎開し、終戦後まもなく逝去されたので、舎弟の小松清氏や水谷氏らに暫時指導を託していたが、現在の佐竹正義氏が就任せられて以来、特に飛躍的発展をとげたが、これは氏の熱意と卓越した才腕のお蔭である。すでに全国コンクールに於ても首位を占めること数回に及び、今は日本一と称賛されるようになつたことは、喜びてもなお余りあることである。回顧すれば、今田・山口の両氏は本校ブラスバンドの産みの親であり、市野・小松・佐竹の三氏はまさしく、育ての親というべきである。